初代校長 安田 三吾
つくしなる 大渡川 大方は 我一人のみ 渡る浮世か(古今和歌六帖)
かつて、若松は洞海(くきのうみ:大渡川)と響灘に囲まれた離島でありました。三韓征伐に赴く神功天皇、豊臣秀吉も文禄・慶長の役の際に軍船にて洞海湾から江川(現在若松区大鳥居前)を抜け芦屋へ至るとの記録が残ります。また、小田山古墳群、若松北海岸(玄海国定公園)、北九州最大の総合公園「響灘緑地」など、豊かな自然を有しています。明治以降は筑豊炭田を背景に、日本一の石炭積出港として栄え、現在では大正期の建物を中心にその歴史を伝えるとともに景観的にも優れた地域でもあります。
このように豊かな自然と悠久の歴史を有するこの地に、地元若松の期待はもとより、北九州西部地区の商業教育の拠点としての使命を担い本校は誕生しました。
一 本校の胎動
本校の源流をたどれば、戦後間もない昭和二十四年、福岡県立若松高等学校に設置された商業課程まで遡ります。旧制若松中学校と旧制若松高等女学校は昭和二十四年に若松高等学校に統合されました。この際、旧若松市と学校当局が県に陳情を行い、専門教育課程設置の重要性を再三に渡って説き、商業課程の設置に至りました。商業課程は主として旧制若松高等女学校の校舎を使用したとのことでした。
生徒募集定員
・昭和二十四年度 五十名
・昭和二十五年度~昭和三十二年度 一〇〇名
・昭和三十三年度~三十四年度 二〇〇名
二 分離独立への動き
(一)新高校設立の背景
昭和三十代は、戦後の学童人口増加により高等学校志願者数が漸増しており、地元中学校からの卒業生の進学希望が受け入れられない状況にありました。当時、若松市(現若松区)には、県立高校が若松高校一校のみであり、若松西部にある島郷地区には若松高校島郷分校(定時制・昼間課程)がありました。
(二)島郷分校のこと
島郷分校は昭和七年に島郷尋常小学校(現洞北中学校)に併置された若松商工専修学校島郷分教場です。のちに若松高校島郷分校となりました。分校では入学者の減少傾向が常態化しており存続の危機に瀕しておりました。地域では分校を存続させるため、交通の便が良い二島地区に新校舎を新設すべきであると陳情を始めていました。
このような背景により、昭和三十年十月に「高校新設」について、市議会に要望が出され、県への陳情が始まりその理由は次のとおりでした。
・新設高校には商業高校を要望する
・現若松高校商業課程を拡張させ独立高等学校とする
・島郷分校は新設高校に併置
三 県下初の単独商業高校の誕生
地元の強い要望と期待を担い、昭和三十五年四月一日、現在の地に県下初の単独商業高校である福岡県立若松商業高等学校(募集定員二〇〇名一学年四クラス)が誕生しました。
島郷分校は三・四年生を本校が授業委託を受け翌年発展的に解消されました。地元島郷地区の方々の地域における公立中等教育学校継続の強い意思を受け継ぎ、島郷分校は本校の前身の一部として、その建学精神は今なお本校に息づいています。
なお、昭和三十五年に本校と同時に認可・設置されたのは福岡県立小倉高校商業科から分離独立した現在の福岡県立小倉商業高校でした。この後、若松商業高校、小倉商業高校は北九州地区の商業教育の両輪として、地域の活性化と時代をリードする教育活動を牽引しています。
四 教育活動開始(第一回入学式)、開校式と開校記念日
昭和三十五年四月十日、十一日に若松高等学校から商業科二・三年生が、現在の花房山の麓に集いました。以来、若松高校とは、学校行事や部活動の交流など、兄弟校としての関係が今に続いています。四月十二日に運動場にて若松商業高校として、最初の始業式が行われました。
第一回入学式挙行(二島小学校講堂借用)
・昭和三十五年四月十四日 入学者二一七名(定員二〇〇名)
同年十一月十八日、校舎建設第三期工事が終了し、ようやく全校生徒六二三名(定員六〇〇名・一二クラス)の通常の教育活動が開始可能となりました。
・十一月二日 開校式挙行。この日をもって本校の開校記念日と定めました。
五 第一回卒業式及び学校行事等
第一回卒業式挙行(二島小学校講堂借用)
・昭和三十六年三月二日、卒業生二〇六名
(昭和二四年四月設置の若松高等学校商業科程の卒業生累計七一九名)
学校行事抄
昭和三十五年
・九月一五日 第一回修学旅行(第二学年、箱根・富士・東京・日光)
・十一月二日 開校式挙行(開校記念日)
同 日 第一回文化祭(現若商祭)開催
・十一月三日 第一回体育会(現体育祭)開催
六 校訓と校是のこと
初代安田三吾先生は本校開校に当たり、校訓と校是を左記のとおり示されました。
校訓
自立・・・他力を借りず、己の力で立つこと
創造・・・はじめて作ること
協力・・・ちからをあわせること
校是
「強いこころ」と「温かい心」
校訓の教えを生徒へ涵養するため、校是として「強いこころ」と「温かい心」を示されました。生徒たちが社会の荒波を乗り越えることができる「強いこころ」を育む。そのこころを育むために教職員は厳しくも「温かい心」をもって導く。このように教えられました。生徒にも職員にも深い教育的愛情が注がれ、現在でも本校の精神的支柱として拠って立つ「もとつ教え」となっています。
なお、正面玄関の校訓碑は、本校を見守る花房山の中腹から砕石され、平成二年創立三十周年を記念して本校同窓会(彩雲会)が建立しました。
七 校章・校旗・校歌・応援歌のこと
(一)校章
昭和三十四年、若松高校に設置された若松商業高校設立準備委員会において、昭和三十五年一月に検討されました。その中で、若松の名称は「恵比寿神社縁起」に御社の海辺に植えられた若々しい松に由来しているとのことでした。その「小松」とギリシャ神話の商神ヘルメスを表す「杖・翼・蛇」を図案化しました。また、スクールカラーである「真紅」は、混じりのない正真の紅色であり赤心(うそや偽りのない心)を表すものです。
このように、地元若松の商業高校であることを明確に示し、商業人として最も大切な信用(うそや偽りのない心)を表した素晴らしい校章が誕生しました。
(二)校旗
初代校旗は昭和三十五年に作成されました。現在は二代目の校旗であり平成二十二年創立五十周年を機に改めて作成され、本校同窓会(彩雲会)から寄贈されました。
(三)校歌
昭和三十六年九月、歌詞を玉井政雄氏(芥川賞作家・火野葦平実弟。地元大学等教授を歴任、地方文化育成に尽力。数多くの民話や郷土資料を掘り起こし多数の著書を残す)作曲を角 正年氏(北九州市内の中・高の校歌を多数作曲)に依頼し、昭和三十七年十一月二十一日の第三回若商祭において発表されました。同時に作詞者である玉井正雄氏から校歌についての講演会も実施されました。
(四)応援歌
創立十年史(昭和四十四年)によると、昭和三十九年十一月に応援歌の「詞」の部分の記録が残っていました。当時の在校生に確認すると歌った記憶がないとのことでありました。曲は付いておらず、そのため半世紀以上生徒たちに歌い継がれることはありませんでした。
創立六十周年を記念し、当時の歌詞を参考として、現代風に作詞しました。そして、作曲は福岡県立行橋高等学校の校歌を手掛けられた、岡田一吉先生(元県立高校教諭)に依頼しました。実に五十五年の時空を超えて、応援歌が蘇りました。
なお、この応援歌は令和二年十月三十一日、創立六十周年記念式典・生徒発表会にて吹奏楽部の演奏、生徒会の合唱により発表されました。
八 商苑(学術研究誌)のこと
本校の源流である若松高校商業課程の第一回生五〇名から引き継いだ生徒研究が蓄積(ちくせき)され、昭和二十六年に記念すべき『商苑』第一号が創刊されました。残念ながら現在では、第一号から第六号は、本校及び若松高校にも残っておらず、本校創立十周年史(昭和四十四年)の記録をたよりに、当時の偉業を偲ぶばかりです。
『商苑』の名称の由来は、「商業に関する学術研究生徒の集まる所(苑)」つまり、商業課程生徒の学習発表の場でした。創刊以来、毎年刊行され、令和二年度までに六十九号が刊行されており、半世紀以上にわたり、その伝統が現在まで連綿と継承されています。
創刊当初は先生方と生徒による戦後の我が国の復興に寄与するための経済研究の内容が主でありました。現在では、学年、生徒会活動、部活動、学校行事等の活動紹介が主となる学校機関誌へと成長しており、『商苑』の歴史と伝統に新たな新風を吹き込んでいます。
九 開校当時の進路状況
昭和三十四年、若松高校に設置された若松商業高校設立準備委員会において校務分掌の検討について、教務部・生徒指導部はもちろん、専門高校である本校では、就職指導の充実が学校の生命線であり、「就職指導部」または「職業指導部」との名称で出発する案がありました。しかし、大学等へ進学希望の生徒も少なからずあり、生徒の無限の可能性を広げるため、進学指導にも柔軟に対応することを目指し、「進路指導部」との名称で出発しました。
昭和三十九~四十三年度 進路状況(創立十年史から抜粋)
・主な進学先(大学等)
北九州大(現北九州市立大)、下関市立大、日本大、専修大、成城大、東洋大
近畿大、広島商科大(現広島修道大)、松山商科大(現松山大)
西南学院大、福岡大、九州産業大、久留米大、八幡大(現九州国際大)
梅光女学院短大、西南女学院短大、東筑紫短大、九州女子短大など
・主な就職先(企業名は当時のもの)
八幡製鉄(株)、九州電力(株)、安川電機製作所(株)、日本板硝子(株)
日立金属工業(株)、日本水産(株)、出光興産(株)鹿島建設(株)
東京海上火災保険(株)、住友生命(株)、大和証券(株)、(株)富士銀行
(株)住友銀行、(株)三井銀行、(株)福岡銀行、西日本相互銀行
(株)井筒屋百貨店、(株)玉屋、日本道路公団、北九州市役所など
十 開校当時の部活動
専門高校らしく、学校の教育目標を「文武両道」として掲げ、数多くの部活動が創部されました。開校時の昭和三十五年度には既に十六部、その後、昭和四十三年度までに三十二部が創部され、各部とも活発に活動しました。
昭和三十九~四十三年度の部活動(創立十年史より)
・運動部(十三部)
陸上部、野球部、ソフトボール部、ラグビー部、テニス部、水泳部、山岳部
剣道部、柔道部、体操部、卓球部、バレーボール部、バスケットボール
・文化部(十九部)
書道部、演劇部、茶道部、華道部、美術部、合唱部、英会話部、放送部
物理部、刺繡手芸部、園芸部、新聞部、商苑部、図書部、珠算部 タイプ部
事務機械部、写真映画部、統計部
本校は、戦後の混乱期、その後の高度成長期、そして人工知能が進展する現代まで、時代がどのように 変転しようとも揺らがず創立時の精神を揺らがず継承し、爾来、商業教育の本流を正に「行くに径に由らず」、奇を衒うことなく、六十年間突き進んできました。その間一万四千名有余の卒業生が巣立ち、地域社会をはじめ、全国そして世界の各分野で活躍しています。
本校黎明期の息吹を継承し、これからも「若松を見つめ、若松を動かす」を指針として、郷土若松を誇り、愛し、そのことを基盤として、全国の商業に関する学科を有する高等学校の商業教育の指針となる「標」の構築をめざします。そして、次なる七十年、一〇〇年、そして大還暦一二〇年へ向けて誇り高く未来へと進んでまいることをお誓いします。
卒業生及び生徒諸君、君たちの高い理想と志、それを実現させるためのたゆまぬ努力。その全てを母なる花房山は久遠にあたたかく見守っています。
彩雲なびく 花房の 麓に集う 若人よ
鍛えた技は 潔し 強きこころの 若商健児
(創立六〇周年記念誌「彩雲」より)